前回、NYCの話しとかで興奮してしまい、結局BEATのAggregateグループの話しは最初の部分で終わっってしまった。そんな矢先、ピラー1でチョッとアップデートしたいニュースがあるので今回は特番。
OECDのBEPS 2.0で提案されてる2本の柱の1本となるピラー1は、デジタル経済下でのクロスボーダー課税の新基準作りっていうBEPS 2.0の目的そのものの話しで、ピラー2はどちらというとオマケで議論されてる感じで、ピラー1こそが屋台骨だ。柱が2本しかない構造で、そのうち1本の柱がなくなってしまったら普通の建物だったら骨組みにならない。なくなる柱が主たる柱だとしたらなおさらだ。
で、そんな建築の世界だったら大変な出来事が、BEPS 2.0に関しても進行中。BEPS 2.0の屋台骨ピラー1の先行きが徐々に怪しくなっていく様子、そしてついに米国が引導を渡すに至る経緯は、ここ一年くらいのポスティング「DCからのお手紙でOECDデジタル課税・ピラー1に早くも暗雲?」「BEPS 2.0ピラー1の終焉」等で触れてるんで、興味があったら時系列的にその変遷を読んでみて欲しい。
そんな逆風にめげることなく、OECDはピラー1の合意に向けてブループリント・ドラフトをIF各国に共有したり、チョッと痛々しい感じもするんだけど、自らに活を入れるかのように手綱を緩めぜずにテクニカル面での設計に驀進していた。疑ってかかるような意地悪な見方をすると、チョッとスピンがかったPRを繰り返してるようにも感じられたけど、2020年も9月後半というこのタイミングで、あんまりいつまでも非現実的なタイムラインやプランに固執していてもいつかは万事休して信用問題にも発展し兼ねず、「近々に成功する可能性は約束されてないんで、皆さん勘違いしないで下さいね~」みたいなExpectationの調整が、いずれ行われるはずと思い、状況を注視していた。特に10月8日に次のIF全体会議の開催が控えてるんで、その前後の動向は特に気になるところ。
そんな折に登場してきたのが他でもないパスカル・サンタマン氏。OECD租税政策・税務行政センター局長ご本人だ。世界中の政府がコロナ禍でロックダウンという政策を取る直前、神楽坂で開催された会食でご一緒させて頂けて身に余る光栄だったけど、BEPSをここまで世界に浸透させただけのことはあるエネルギッシュかつユーモア溢れるウォリアーだ。そんなパスカル氏が、レマン湖の畔に位置し、豊かな自然、ローマ時代からの歴史、文化の香り漂う古都ローザンヌの名門校のローザンヌ大学のクロスボーダー課税ポリシーイベントで先週9月15日に「新しいクロスボーダー課税ルールを世界で合意しようとしてるんだけど、皆さんもご存じの通り、トランプ大統領は訳わかんない輩で・・・」と切り出してExpectation制御モード。「交渉再開を米国選挙後まで待ってたら、その間にDSTが台頭してくることになるし、Bidenになったとしても交渉が進む保証もないし」とチョッと愚痴っぽいニュアンス。
え~、ピラー1の成否もトランプ大統領次第だったの?ここ4年間、米国のメインストリーム・メディアは「世の中で起こっている諸悪の根源は全てトランプ大統領」って、まるで何かに取りつかれたかのように血走った目で連呼し続けてきたけど、パスカル氏もメインストリーム・メディアの見過ぎなんだろうか(苦笑)。この手の発言は大学のオーディエンスとかには受けるだろうから、それを見越してのOvertureだったのかもしれない。実際にトランプ大統領が世界の諸悪のうち、どの悪に関して根源なのか、っていう点は各人の思想等で判断が異なるだろうけど、ピラー1に関する限りどうだろうか。確かにフランスがDSTを掛けるんだったら、チーズやワインに懲罰的関税を課すぞ、とかフランスとトランプ大統領は喧嘩が絶えないけどね。でも、ピラー1の行き詰まりは、どちらかというと政治的に早期コンセンサスをグローバルで取り付けるっていう結果を優先しようとするがあまり、現時点のピラー1にはコンセプト的な規律が欠けてて納得感がない、っていう致命的な欠点の方が大きいのでは?
米国がピラー1に乗り気でないのはトランプ大統領の気まぐれのせいではなく、ピラー1が課税しようとしている米国ハイテク企業からしてみると、自社の超過利益や企業価値に市場国のユーザー参加を源泉としている部分があるのかないのか、あるとしてもそれがいか程のものなのか、っていう根本的な前提や議論が尽くされる前に、安易に恣意的な%だけ決められてしまうのは釈然としない、っていう点が気になるのでは?このままなし崩し的にあまり意味のない%だけ決まり、超過利益を世界中にばらまくような仕組みに合意されてしまったりすると、そんな制度はSustainabilityに欠ける。
この手の話しで示唆に富んでいるのがUberがOECDに提出しているコメント。コメントを作成したUberのVP Finance Tax & AccountingであるFrancois Chadwickは専門誌への投稿とかで更に深堀したコメントを出している。Uberはピラー1ばかりでなくピラー2にも洞察に富むコメントを出しているからOECDのウェブサイトで見てみると面白い。
ピラー1に関して2019年3月に提出したコメントでUberが疑問を呈している点のひとつに、ユーザー参加が企業価値に貢献しているかどうかは意見が分かれるところだし、仮に何らかの貢献があるとしても一律の%で価値を認定してしまうのは非現実的、というものがある。確かに、デジタル企業というとインターネットで人手を介さずに安易に取引を行って濡れ手に粟みたいに簡単に莫大な利益を認識できる、っていう誤ったイメージがあるかもしれないけど、デジタル企業のビジネスモデルを可能にしている、また厳しい競争に勝ち抜くための価値のあるユニークなIPの開発とかIPを活用して事業を遂行する際の機能一般は結局は広範に人間の手に頼っている。従来、超過利益をそれらの機能を持つ場所で認識し、単なる市場国には超過利益を配賦していないのはまさにこの理由。IPの開発や事業遂行には失敗例も多く、多くのスタートアップが消えて行くけど、それらのリスクや損失を負担しているのも市場国ではない。
その後、2019年11月のコメントでは市場国に配賦される超過利益は少額(Modest)に留めるべきで、超過利益というものは主にIPのDEMPEを源泉としていることから、DEPMEの場所に主たる課税権があり続けるべき、としている。人の移動手段を根本的に変革させてしまったデジタル企業張本人Uberによるコメントだけに、「自国にFair Shareのタックスを支払え」と何がFair Shareかという点に関して理論武装が弱いまま主張し続ける市場国政府との対比で、迫力満点で重みがある。この議論、日本企業の多くも同感ではないだろうか。
Francois Chadwickが専門誌に寄稿している「デジタル時代の新クロスボーダー課税」という論文では、かなり具体的にピラー1のUnified Frameworkに代わる新クロスボーダー課税システムを提案している。基本的にはModified Residual Profit Split (MRPS) methodを適用するとしながらも、PSに付きまとう複雑性を排除し、デジタル時代に対応するようにアップグレードするというもの。そこには詳細な経済分析やUberでの実績に裏付けられた興味深い分析が満載されている。ここでその全てを解説する訳にはいかないんで残念だけど、ザックリ言うと、超過利益をProduct Intangible Profit(「PIP」)とMarketing Intangible Profit(「MIP」)に分けて、MIPをさらにDEMPEに帰する部分とユーザー参加を含む外的要因に帰する部分に分けるというもの。超過利益全体から研究開発の度合いからはじき出される%でPIPをを取り出す。そして残った部分をMIPとし、さらにそこからDEMPEを基とする金額を除き、残った金額が市場国配賦対象となる。Uberの実績からMIPのうち80%はDEMPEに帰するというデータがあるらしい。となると、超過利益からPIPを排除してMIPに分け、さらにその20%だけがAmount A同様となり市場国に配賦対象ってことになる。Amount Aが超過利益の一部のさらに上澄み部分だけになってるのに何となく似てるけどね。Uberの数字を使うべきかどうかという話しではなく、このようにユーザー参加の価値をビジネスモデル別にきちんと検証することなく、コンセンサス作りに邁進している点こそピラー1が暗礁に乗り上げてる大きな理由ではないだろうか。
これらのピラー1の展開、特にここ数か月のピラー1の弱体ぶりを冷徹に観察しているに違いないもう一つの国際機関がある。国連、United Nationsだ。以前、本来発展途上国の代弁者たるべきUNがモタモタしてる間に、OECDがIF大連合を形成し、クロスボーダー課税に関しては国連っぽいノリの機能を横取り(?)しちゃっててチョッと不思議だよね、って「BEPS 2.0ピラー1の終焉」でチラッと触れたけど、UNはここに来て急に絶妙のタイミングでデジタル課税議論にリエントリーしスパートをかけている。このタイミング、もちろん偶然ではない。グローバルのいろんな利権争いは海千山千のプレーヤーがしのぎを削っているってこと。このUNの登場は面白いので次回のポスティングでチラッと触れておきたい。
なかなかBEATのAggregateグループの話しが終わらなくゴメン。最高裁判事のNotorious RBGとして親しまれてきた法曹界の巨匠Ginsburgが選挙まで一か月強のこのタイミングで他界してしまったり、世の中いろいろあり過ぎ。