Sunday, April 7, 2019

FDII/GILTI控除財務省規則案 (3)

FDIIの財務省規則案が公表されたのを機に、FDIIについて書き始めてたんだけど、税制改正のインプリメンテーション等でとてつもなく多忙になってしまい、なかなかアップデートできず終いで今に至ってしまった。それにしても税制改正のコンプライアンスに与える負荷は凄まじい。2018年3月期は基本的に留保所得一括課税と即時償却の影響だけを考えればよかったけど、2019年3月期からは部分的に留保所得一括課税も残るケースもある上に、BEAT、GILTI、FDIIが「本当に」申告書に反映されることになるため迫力満点。

早くも一年前となる2018年3月の留保所得一括課税だって、実際に申告書に反映させようと思って規則を適用してみると、Cash v. non-cashの区分、期中の分配、FTCの計算やSection 78グロスアップに対するSection 245Aの適用可否、とか想像を絶する複雑さ。規則とか読んで全て分かったような錯覚を覚えていても、実務に申告書に落とし込んでみると理解が深まるというか、理解しているつもりでも実はアヤフヤにしか分かっていない部分が浮き彫りとなる。

ちなみに留保所得一括課税は「旧」税法の世界で処理されるため、FTCなんかは旧Section 960経由で今は亡きSection 902で処理しないといけない。つまり慣れ親しんだPoolingで分母と分子をどう考えるのか、とかをバスケット毎に詳細検討したり、1986年以降すっかり定着していたFTCの考え方に基づき、「昔こんなエクセル作ったな~」とか、Section 902的にはかなりの郷愁が漂う作業となり、最後の郷愁と言う意味ではビートルズのLet It Beのスタジオセッションを彷彿とさせてくれた。何言ってるか訳わかんないかもしれないけど、それだけ米国で国際税務にかかわってきた者にとって今回の税制改正がゲームチェンジャーだという一面を、FTCのSection 902引退をもって感じることができるということ。もっと訳わかんない?かもね。

Let It Beと言えば、ナンとApple(MACやiPhoneのAppleではなく、元祖ビートルズのApple Corpの方)が、Rooftopコンサートのちょうど50周年に当たる今年の1月30日に、Peter Jacksonの手によりLet It Beセッション(またはGet Backセッション)の未公開映像を編集して新Let It Be製作に着手するというとんでもない吉報を発表した。しかも、80年代に質の悪いビデオが限定的に公開されたきりPublic Domainから姿を消していた元祖Let It Beの方も、再マスターされて「正式」に再公開されるという「今日まで生きててよかった~」レベルの大ニュースも一緒だった。

Appleのプレスリリースによると、1969年1月2日~31日に録画された55時間に上る未公開映像、144時間に上る音源、を基に新たなLet It Beを制作するというもの。凄い!できれば55時間丸ごと55回に分けてでもストリーミングして欲しい。1969年1月2日と言えば、ホワイトアルバムの録音終了から僅か数カ月後に、Twickenham Film Studiosにグループが再集結した日そのものだし、その後、George Harrisonが脱退して(クラプトンを代わりにみたいな凄い話しがあった時期)3人でセッションしていた数日を挟み、和解後にSaville RowのAppleビル(今ではA+Fのお店になっているあのビル)に場所を移しセッションを続け、Rooftopでのランチタイムに予告なく始まった(グループ最後の)Public Apperanceの1月30日までの全てをカバーしていることになる。賢いみんなは、でもプレスリリースでは1月31日までのセッションとなってるけど、って一日の差異を疑問に思ったことだろう(誰も思ってない?)。この空白の一日は、実はオリジナルの映画ではあたかもRooftopコンサート前に行われたかのようにプレゼンされている「Two of Us」「Let It Be」「The Long and Winding Road」3曲の最後のスタジオセッションの日だ。次回、映画Let It Beを見る際には、実はこの部分はRooftopの翌日だったんだ~、って観察すると更に感慨深い鑑賞となるだろう。

1月2日から1月15日までのTwickenham Film Studiosそして1月21日~1月31日までのAppleビルのセッションの様子は数々の海賊版(懐かしい響き!)で流出しているので、内容的には大概想像がつく。Let It Beのアルバムに落ち着いたナンバーに加え、公表は先だけど実際にはその後にレコーディングされたAbbey Roadに収録されている曲、さらには解散後ソロになった後に発表されることになる曲がIncubateされて徐々に形作られている過程だ。

Twickenham Film Studiosって、Abbey RoadやAppleビルと異なり、ロンドン市内ではなくヒースロー空港とロンドンの中間みたいな場所に当たるSt Margaretsっていう実に英国っぽい名前・風貌の街にある。あんなところに新年早々朝から集合しないといけないとは有名アーティストの仕事も楽じゃない。映画見る限り屋内でも相当寒そうだし。実はLet It Beの映画が恋しい余りに(わざわざ)St Margaretsまで訪ねて行ったことがあって、もちろん外からビルディングだけ見てもなんてことはなかったんだけど、そこの空気吸えて、その場に行けただけでも大満足。小さいころ、どんな場所なんだろう・・って夢広がってたイメージとはチョッと違ったりはしたけど。Saville RowやAbbey Road行く人は多くてもTwickenhamまで足を延ばす変わり者は珍しいかもね。

その場に居たと言えば、実は僕はJohn LennonとPaul McCartneyの2人「本物」を、コンサートとかのセッティング以外で、実物を見たことがある。特にJohn Lennonに関してはかなりの自慢話し。1970年代後半、夏休みの一部を軽井沢で過ごしていた時期があり、その時にたまたまJohn LennonとYoko(そして生まれて間もないSean)が旧軽の万平ホテルに滞在しているという噂があったので、毎日(皇太子と美智子様の出会いで有名な)テニスコート付近でわざわざHangoutしていた。そしたら、本当にJohnとYokoが(ナント)自転車に乗って現れ(Seanは確か自転車の前に据え付けられたカゴにチョコンと乗ってた記憶がある)、テニスコートの横で休憩し始めたのだ。写真そのもののJohn Lennonの生の姿を至近距離(2メートルくらい)で拝む結果となり、余りにSurrealな状況に気絶寸前。ビートルズの歌詞以外は英語も今一つな時代だったし、余りのオーラに辺り一面圧倒され半径2メートルくらい円形に自然にスペースができていたりしたこともあり、声を掛けることができなかった。今だったら「一緒にバンドでもやりませんか?」位のジョークは言えただろうに一生の不覚。でも2人が立ち去ろうとしている際に勇気を出して近づこうと思ったら僕の自転車がYokoの自転車に触れてしまい、そしたらYokoが「Sorry」って一言話して(?)くれた。謝る時は「I am sorry」と教わっていたのに、「Sorry」だけでいいんだ~、みたいなとんでもなくイノセントな時代だった。

で、Paul McCartneyの方は、1966年の武道館コンサート以来初、ソロ活動を開始してからも初、しかもVenus and Marsが出てWingsがまあまあ商業的に成功しているっぽかった「Rock Show」での来日時の話し。時は1980年。ウドー音楽事務所から早速手に入れた整理券は順番が遅かったので、代わりに新宿の「プレイガイド」(こんな言葉今でもあるのかな)で4泊徹夜して武道館アリーナ最前線の席のチケットを4日間(確か)予定されていた全コンサート分入手した。いよいよ来日が近づき心臓が止まりそうなくらい楽しみにしてたんだけど、ナント1980年1月に成田に到着したPaul McCartneyは麻薬不法所持で空港で逮捕され、そのまま留置所に。コンサートは全て中止となり、チケットは「額面」で払い戻しとなった。当時一緒にコンサート行く予定だった友人と熟考の末、チケット2枚は記念にとっておいて、残りは当時は珍しかったカラーコピーを新宿紀伊国屋でしてもらい還付、双方共後生大事に宝箱に入れて取っておいた。でも、もちろん今ではどこにいったか不明。で、全くの想定外の展開に夜も寝れない状況だったんだけど、Paul McCartneyが新橋の警視庁に拘留されていて、取り調べが行われている中目黒との間を行ったり来たりしているという噂を聞きつけ、新橋の留置所の前で張っていた。同様の噂を聞きつけたファンが結構な数いて、警視庁の辺りを取り巻いてたんだけど、そしたらナント本当に警察の所有車っぽい黒塗りの車が堂々と新橋の警視庁正面玄関に乗り付け、Paul McCartney本人が車から降りて歩いて階段を上り、建物に入っていったのだ。その瞬間辺りは騒然となり、興奮に包まれた。実はその後、Paul McCartneyとは再会(?)があり、それは時は流れて、2005年。ロサンゼルスの西部、ちょうど2002年頃まで10年近く住んでいたWestwoodの家から徒歩数分の場所にあったBordersっていう本屋さんがまだアマゾンに駆逐される前で健在だったころに、Paul McCartneyの著書「High in the Clouds」刊行記念サイン会みたいなプロモーションを企画した際。またしても本屋の前で張ってたら本当に(というか今回は予定通りに)、Paul McCartneyが、当時何らかの契約関係にあったLexusのSUVに乗って現れた。っていうのが2回目のEncounter。

Section 902の最後の郷愁から話しが飛び過ぎたけど、税制改正と新Let It Beのどっちでより興奮するべきか、という究極の課題を突き付けられたことになる。

で、FDIIだけど、米国法人が認識する当期の単年課税所得のうち、「みなし動産リターン(ルーティン利益)」を差し引いた金額を機械的に「みなし無形資産リターン」とし、そのうち米国外の顧客から発生する取引に帰する部分を13.125%で課税するという仕組み。なので、別に無形資産を有しているとか、価値のある無形資産に基づくリターンを得ているとか、そんな自意識がゼロでも、「みなし」の無形資産リターンが存在する限り、FDII,すなわちForeign Derived 「Intangible Income」の恩典を享受することが可能だ。

FDII計算ステップを簡単にまとめると次の通り。まず、米国法人(連結納税している場合は連結納税グループ)に「みなし無形資産リターン」が存在しないとFDIIの恩典には一切あり着けない点は上述の通りで、まずはここに着眼せざるを得ない。この認定もフォーミュラとしては機械的。すなわち単年課税所得とルーティン利益を比べて、課税所得の方が大きければその部分が超過利益として「みなし無形資産リターン」となる一方、ルーティン利益の方が大きければ、超過利益は存在しないとみなされ、その場でFDIIの検討はお終いとなる。

では、この運命の分かれ道となるみなし無形資産リターンの算定時に使用される、ルーティン利益、すなわち「みなし動産リターン」をどのように算定するかだけど、これは単純に「有形償却資産ネット簿価年間平均額(Qualified Business Asset Investment 「QBAI」)」の 10%。ここでいうネット簿価は米国法人税ベースだけどMACRSではなく、ADSと呼ばれる定額法償却に基づくもの。ADSにはボーナス償却とか、定率法に基づく加速度償却とかが存在しないので、ADSベースの簿価はどちらかというと会計の簿価に近い。各四半期末の簿価を年間平均した金額がQBAIとなり、これに10%掛けた金額がルーティン利益扱いされ、当額と比較して、課税所得の方が大きければ一次試験合格。

ここでは話しを簡単にするため「課税所得」がルーティン利益を超えていれば、と書いてるけど、実はこの算定をする際の課税所得は、申告書上の課税所得全体からいくつかの項目を除外する必要がある。それらは、CFC合算所得(Subpart F所得)、GILTI合算所得、金融サービス所得、CFCからの配当所得(みなし配当含む)、FOGIの逆でDOGI(?)とでも言える米国内オイル・ガス所得、そして米国外支店所得だ。米国外支店に帰属する多くの所得は普通に考えればその大半が米国外のカスタマーからの売上となるはずだけにFDIIの計算から(米国外)支店に帰する所得がカーブアウトされてるのはかなり興味深い。支店に関しては、支店をQBUと定義して、FTCの際に別のバスケット化されたりしているので再注目されているけど、FDII目的では支店に所得が配賦されない方が有難い一方、FTCのことを考えると、Excess Creditの場合には支店により多くの所得を配賦する方が好ましくテンションがある。条約のリソーシングとの関係とか、時間があったら税制改正後の米国法人の海外支店・PEは深掘りしてみたいトピックのひとつだ

みなし無形資産リターンの存在が確認できたら、次はそのうちのどの部分が米国外派生となるかの確定。これも「みなし無形資産リターン」に 「米国外派生%」を掛けた金額なので、フォーミュラとしては機械的に算定され、この金額こそがFDIIだ。米国外派生% は、単純に言えば、上述の除外項目以外の課税所得(適格所得)に占める外国部分の%。外国部分は米国外カスタマーに対する売上(ライセンス含む)およびサービス提供から派生する課税所得。なので米国法人の取引のうち、何がFDII目的で「米国外カスタマー」に対する取引と認められるか、が最重要検討事項となる。この点から次回。